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2023.2.15



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近親者が亡くなって悲嘆に暮れている人にブッダがかけた言葉

『スッタニパータ』

 第3:大いなる章 ⑻ 矢


574:この世における人々の命は、定まった相(すがた)なく、どれだけ生きられるか解らない。惨(いた)ましく、短くて、苦悩をともなっている。


575:生まれたものどもは、死を遁(のが)れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。


576:熟した果実は早く落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖れがある。


577:たとえば、陶工のつくった土の器が終にはすべて破壊されてしまうように、人々の命もまたそのとおりである。


578:若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る。


579:かれらは死に捉(とら)えられてあの世に去って行くが、父もその子を救わず、親族もその親族を救わない。


580:見よ。見まもっている親族がとめどなく悲嘆に暮れているのに、人は屠所(としょ)に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。


581:このように世間の人々は死と老いとによって害(そこな)われる。それ故に賢者は、世のなりゆきを知って、悲しまない。


582:汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。汝は(生と死の)両極を見きわめないで、いたずらに泣き悲しむ。


583:迷妄にとらわれ自己を害っている人が、もしも泣き悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。


584:泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。


585:みずから自己を害いながら、身は瘠(や)せて醜くなる。そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。


586:人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕(とら)われてしまったのだ。


587:見よ。他の〔生きている〕人々は、また自分のつくった業にしたがって死んで行く。かれら生あるものどもは死に捕えられて、この世で慄(ふる)えおののいている。


588:ひとびとがいろいろと考えてみても、結果は意図とは異なったものとなる。壊(やぶ)れて消え去るのは、このとおりである。世の成りゆくさまを見よ。


589:たとい人が100年生きようとも、あるいはそれ以上生きようとも、終には親族の人々から離れて、この世の生命を捨てるに至る。


590:だから〈尊敬さるべき人〉の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。


591:たとえば家に火がついているのを水で消し止めるように、そのように智慧ある聡明な賢者、立派な人は、悲しみが起ったのを速かに滅ぼしてしまいなさい。——譬えば風が綿を吹き払うように。


592:己が悲嘆と愛執と憂いとを除け。己(おの)が楽しみを求める人は、己が(煩悩の)矢を抜くべし。


593:(煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。





以上の詩偈は、岩波文庫『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳、129頁ー131頁にあるものだ。

ある在俗信者が子を失い、悲嘆に暮れて7日間食事をとらなかったのをブッダ(釈尊)が同情して、彼の悲しみをとり除くために説いた教えだという。


我が家の3猫のうち2猫は、ともに来月で10歳になる。

高齢の部類に入るため、これからどんな病気になってもおかしくないから、見送らねばならない日が来ることをときどき想像する。


これを読んで感じることは人それぞれだと思う。


仏教を学んできたワイには、『生まれたものどもは、死を遁(のが)れる道がない。老いに達しては、死ぬ』(575)という現実を受け入れなければならないと釈尊が説いていることは頭では分かっている。

でも本当に理解体得して割り切るのはかなり難しい。


『ひとびとがいろいろと考えてみても、結果は意図とは異なったものとなる』(588)という言葉にはハッとさせられた。

生きているうえで自分の期待通りに事が進むことなんてそんなに無い。

あったとしても、それはたまたまそうなっただけだ。

先のことについて「あーなったらどうしよう」「こんなふうになってしまうかもしれない」といろいろ想像しては不安になるけど、自分の想像どおりになることはほぼ無いんだよなぁ。

こうゆうネガティブな想像は、仏教的には「妄想」なのだ。

とはいえ、やっぱり同じ想像を繰り返して頻繁に不安に陥っているワイは愚者なのだろう。


日々修行である。



おちまい




 

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