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差別や偏見があるこの社会での私の処世術

今日は朝から心がザワザワしている。

燃え上がった憤りの炎はだいぶ鎮まったものの、いまだチョロチョロと火種が残っている感じである。


というのも、昨夜ツイッターで、こんなツイートを見たからである。

そのスクショを載せるほうが、ツイートしたご本人の意図がしっかり伝わるとは思うのだが、そのせいで相手側に迷惑をかけてしまったら申し訳ないので、要約を掲載する。


それは、とある医師(プロフィールにはそう書かれている)によるツイートに対するコメントだった。

私というフィルターを通した要約のため、ツイート者の正確な意思とは若干のズレが生じているかもしれないが、ご容赦ねがいたい。


まず、コメントの発端となった医師によるツイートは次のようなものである。


「あの人、生活保護なのに案外まともだよね」
「なんか変なひとと思ったら、やっぱり生活保護か」
こんな会話が、医療機関のバックヤードで何の疑問も抱かれることなく、むしろ冷笑しながら日常的に行なわれている。
そのことが気が狂うほど我慢ならない。


そして、このツイートに対する或る医師のコメントに私は憤りを感じたのだが、それが次である。


そう話している人の言葉は、それなりの経験をもとに発せられたものであり、医療関係者にしか分からないものである。
生活保護受給者だからと差別したくて言っているわけではない。
先のツイートについて基本的には賛成だが、医療の現場で多大なる迷惑をかける生活保護受給者が少なからずいるという事実は確かである。
しかし、それを口に出して言ってはいけない。


コメントでは否定しているが、バックヤードでの発言は明らかに生活保護受給者を差別している。

「生活保護受給者はまともではない」「生活保護受給者は変なひと」という偏見(スティグマ)のもとに、ステレオタイプ的に発せられているとしか私は思えない。


まあ、おそらく事実なのだろう。

彼いわく、医療関係者でないと分からないことだそうだ。

私は医療関係者になったことはないから、この医師のおっしゃる通り、まったく分からない。


だが、医療現場で迷惑をかける患者に、生活保護受給者であるか非受給者であるかというのは関係あるのだろうか。

私はそう思わない。

生活保護受給者ではなくても、周囲に迷惑をかけたり、看護師や医師を困らせる患者は確実に存在する。

なのにそれを「迷惑をかける生活保護受給者がいる」とわざわざ強調する必要はないのではないだろうか。


この医師には、生活保護受給者に対する差別意識を感じざるを得ない。

先ほどのコメントツイートには記載しなかったが、実際のツイートを見ると、生活保護受給者のことを「権利を行使している人たち」と表現している。

「受給者」という表現が差別感情を生んでおり、コロナ禍において困窮しているにもかかわらず生活保護の申請を避けてしまう人がいるから、そういった表現はやめよう、という現在の風潮から、こういった表現をしたのだろうと思う。

が、ご本人のなかに差別感情があるからこそ、これを表には見えないようにするため、「権利を行使している人たち」という表現を使って、差別していませんアピールをしているのではないだろうか。


私は生活保護受給者だが、「受給者」という言葉に何の疑問も抱いたことはない。

障害者である当事者が(私は当事者である)、「障がい者」や「障碍者」という表現をとくに求めていないのと同じである。

すべての障害者がそうであるとは思わないが、少なくとも私はまったく気にしていない。

私は「障害者」であり、「受給者」である。



どちらも、当事者になってみないと分からないことのようである。

生活保護受給者である私が、病院の窓口で受付をしたあと、また、会計後に移送費(通院のための交通費)を記載する用紙(※)にハンコを押してもらって、窓口に背を向けた瞬間、「あのひと生活保護よ」とコソコソ言われているのではないかと、毎回劣等感に苛まれているのも、やはり当事者でないと理解できないのだろう。

(※生活保護受給者は医療費のほかに通院のための交通費が支給される。その交通費を請求する用紙には、その日に確かに受診したということを証明するために、その日の日付の欄に病院のハンコを押してもらう必要がある。)


窓口においてだけではない。

診療中においても、看護師や医師から、さらには薬局の薬剤師から、ひどい対応をされるのではないかと常に不安を抱えている。

そして、こういったことが少なからずメンタルに悪影響を及ぼしているように感じている。

生活保護受給によって生活費に対する不安は解消されたが、それまでにはなかった不安や恐怖心が追加されることになり、プラマイゼロ・・・いや、マイナスになっている可能性もある。



生活保護受給者に対する差別や偏見は、どうしようもないだろう。

人間の脳は、自分とは異なる者を自分のコミュニティーから排除するようにできているようだから、この世の中から差別がゼロになることは絶対にない。

つまり、差別を消すことではなく、受け流すことに意識を向けたほうがいいと私は思っている。

自意識を変えるのである。


差別や偏見は、精神疾患の者に対しても存在する。

たとえば、ヘルプマーク。

外見では分からない障害や疾患を持っているひとや、妊娠中のひとなど、何かしらの配慮が必要なひとが身に着けている。

(役所の福祉課などで無料で配布されている。)

「外見では分からない障害」ということで、精神障害者が身に着けていることもある。


そして、精神障害者に対して差別感情がある者は、ヘルプマークをつけているひとを見ると侮蔑し、「メンヘラだ」「キチガイだ」とわざわざ口に出して言ってくる者もいるらしい。

ヘルプマークを付けたひとが電車内で優先席の前に立ったところ、「わ、キチガイだ!あっちいけ!」と言われたというような話も聞いたことがある。

当然、そう言われたほうは多大なショックを受けて悲しみ、ヘルプマークのことを理解してほしい、差別しないでほしいと訴える。


が、ここで私は思う。

他者に対して気安く侮蔑の言葉を吐く非道徳な人間には、理解しようとする意思もないだろうし、そもそも他者を慈しんで共感する力がないかもしれない。

そんな貧しい人間性の者に自分の心が傷つけられるなんて、バカバカしい。

「理解してほしい」という気持ちの奥には「自分を受け入れてほしい」「仲良くしてほしい」という思いがあると思う。

しかし、そんな精神的に未熟な人間と、本当に仲良くなりたいと思うだろうか。

私は、仲良くなりたいとは思わない。

むしろ、自分には近づいてこないでほしい。ぜひ距離を置きたい。

私の視界に入らないでいただきたい。

「メンヘラだ」「キチガイだ」と避けられて大いに結構。

嫌われて距離を置かれるほうが、好かれて近づかれるよりよっぽどマシである。


人間の根底には「受け入れられたい」「嫌われたくない」という思いがある。

それは、社会という群れで生きる人間としての本能的欲求である。

ゆえに、差別という形でそれを否定されると、メンタルを害してしまう。

しかし実際には、すべてのひとから好かれたり受け入れられたりすることはほぼなく、自分を嫌う人間というのは必ず存在するものだ。

相性が合う人もいれば合わない人もいる。

みんな、誰かから嫌われており、それが当たり前なのである。


たまたま電車内で出会った人は、もう二度と会うことはないかもしれない。

親密な関係になる可能性はかなり低いだろう。

そのような人に嫌われたところで、どうということはないのではないだろうか。


病院の窓口の人とは、しばしば接点を持つかもしれない。

しかし、相手は仕事で業務を遂行しているだけであり、それ以上こちらと親しくなろうとはしてこないだろう。

自分はたくさんいる患者のなかのひとりであり、窓口の事務員にとっては患者というひとくくりのなかの1個にすぎないのだ。

患者ひとりひとりを流れ作業でこなしていく。

その流れのなかのひとつに自分がいるだけなのだ。

だから、自分がとくべつ意識されているなんてことはないのだ。

その人に嫌われようが差別されようが、自分さえ気にしなければどうということはないのである。


「受け入れてもらいたい」

「好かれたい」

「嫌われたくない」

「バカにされたくない」

「若く見られたい」

「美人に見られたい」

「ブサイクだと思われたくない」

「デキる人と見られたい」

「賢い人と見られたい」


これらすべては、自意識からくるものである。

その自意識を意識しないようにすれば、これらを求める気持ちは薄らぎ、自分が他者からどう思われようが気にしないで済むようになる。

そのためには、自分を嫌いだと思う人がいることや、自分を差別する人がいるという現実を受け入れるという難題を乗り越えなければならないが。



これが、今の私の処世術である。

私の経験から、周囲の目や声を意識しないようにすることが行き過ぎてしまうと、自分の周りで起こっている不快で不都合なことを、自分の意識から切り離すクセがついてしまう。

しまいには離人症を発症するので注意は必要だと思う。



おちまい




 

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