【原始仏教】死を喜ばず、生を喜ばず。

今は独学だけど原始仏教を学んでいる身として、今回は仏教について書こうと思う。


『テーラガーター』という聖典からの紹介。

以下、取り上げている引用等については岩波文庫の『仏弟子の告白 テーラガーター』(中村元訳)からのものである。

『テーラガーター』とは「長老の詩」という意味だ。

パーリ語のみで伝えられている。

修行僧たちが詠じたものを、ある時期に一つに集成編纂されたものだ。

個々の詩の詠まれた年代は、おそらく紀元前5世紀末から前3世紀半ばころであろうと推定されている。


その中から、私の心に引っかかったものを紹介しようと思う。



アンニャーコンダンニャ長老が詠じた詩句である。

彼は釈尊の最初の説法を聞いて弟子となった5人のうちのひとりで、そのとき最初に阿羅漢のさとりを開いた人である。


16からなる詩句で、そのうちの第685偈がこちら。


われは、死を喜ばず。われは生を喜ばず。
あたかも傭われた人が賃金をもらうのを待つように、わたしは死の時が来るのを待つ。


仏教はその根本に、「生きることは苦である」という考えがある。

だから生まれること(再生)を望まない。

これは現代では受け入れられにくい考えだと思うけれど、当時のインドでは、生まれ変わりを繰り返す輪廻転生という概念が広く一般に信じられていたため、死んだあとに再び苦しみの生存を受けないようにすることが出家修行の目的のひとつだった。

そして、輪廻転生という負のサイクルを止める方法は、悪行をすることなく清い行ないをしてさとりを得ることである。

また、現在の生存中の苦しみは一切のことがらへの執着や妄執が原因だとされ、それらからの解放を目指す。



「死を喜ばず」というのは容易に理解できる。

大概の人はみんな、死ぬのは怖いし、死にたくないと思う。


では、「生を喜ばず」とはどういうことだろう?

生きることを喜ばない、つまり「死にたい」ということなのだろうか。

そうではないと思う。

「生きることに執着しない」という意味であり、能動的に死を求めることではない。


「死を喜ばず」と「生を喜ばず」は一見相反する矛盾した言葉に聞こえるけど、そうではない。

死ぬことに執着せず、生きることにも執着しないということだと思う。

「執着しない」という言葉は具体的にどうゆう心持ちのことをいうのか少々分かりにくい。

私は「意識しない」とか「求めない」という感じかなと思っている。


生きていれば病気にもなるし老いもやってくる。

そして最後には死がやってくる。

それは逃れられない現実である。

死にたくない!と思っても、それは絶対に叶わないのだ。


なのに、この普遍的な真理を理解せずに抗おうとするから苦しみが生じるのだ。



あたかも傭われた人が賃金をもらうのを待つように、わたしは死の時が来るのを待つ。


生きることは苦しいことだけれど、それに抗うことはせず、だからといって積極的に死を求めることもしない。

これは「目の前の“いま”をあるがままに生きる」ということなんじゃないかなと私は思うのだ。


なんか、うまく言えないけど。




.

仏教については人それぞれに解釈があり、個々の中に「これが正しい仏教だ」というものがあると思う。

私の記事の内容について「それは間違っている!」と思われる部分があるかもしれない。

そう思われたとしても、それはあなたの解釈であり正義である。

今の私を否定しないでほしい。


私は学んでいる途中であり、いまだ原始仏教の全てを知らない。

というか、生きている間に全ての文献を読むことは不可能だろうけど。

これからさまざまな文献を読むことで、間違いに気づいたり、新しいことに気づいたり、考えを改めたりしていくと思うので、そっと見守っていてほしい。


私は特定の宗派にこだわっていない。

(というか、大乗仏教は原始仏教とは別の宗教だと思っている。)

主に中村元先生の著書を読んで、自分なりに解釈している。

主に現代語訳の原典を読み、自分が否定的に思ったことは取り入れないし、善いと思ったことは生活に取り入れるようにしている。



おちまい






 

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