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2023年2月から、ブログはnoteに投稿しております。

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猫乃イカ耳のnote → https://note.com/neconoikamimi



【空(くう)】がなかなか理解できなかった学生時代

《ご留意》

ここに書いていることは、あくまでもワイである猫乃イカ耳の解釈をベースにしたものです。

仏教に対する解釈や考え方は十人十色だとワイは思っています。

あなたにはあなたの解釈があり、ワイにはワイの解釈があります。

解釈の違いから論争を起こす意図は毛頭ありません。

それに、ワイはまだまだ学びの途上であり、無知な部分も多くあります。

それをご承知のうえでお読みいただければ幸いです。




 

仏教といえば〈空(くう)〉です。


……。


だよね!?(◦︎•_•;◦︎)



大学生の時は〈空〉の概念がなかなか理解できなかった。


大学の原始仏教(パーリ語)の先生はたぶんスゴイ人。

本は出しているし、夏休みになるとスリランカの長老のところへ瞑想をしに行ってしまうし、Wikipediaにも載っている。

だけど、ワイが言うのはおこがましいことを重々承知のうえで言うと、教え方がイマイチな先生だった。

具体的で分かりやすい説明はしてくれなかった。

もしくは、うまく説明できない口下手なのか…。


いつぞやも、「宗教とは何だと思いますか?」と学生たち一人一人に問いかけ、

「信じることですかねぇ?」

「拠り所だと思います」

などと学生が答えたあと、先生が話しだした。

答えを教えてくれるのかな♪ と期待して聞いていたんだけどうまく答えになっておらず、「教えてくれないんかーい!」とワイは心の中でツッコミを入れていた次第である。


まあ、大学での勉強は自習がメインで、自ら積極的に質問したり論文を読んだりしないと学びは深まらないので、自分で調べて考えろ、ということだったのだろうか。

もしくはワイに理解する頭がなかったか(←有力説)。


話は〈空〉に戻る。

その先生が〈空〉について説明をしてくれた。

その時の説明が、


「例えば、これはペンであってペンではないのです」
「目の前に突然ペンが現れたわけではないのですよ」
「これは机であって机ではないのです」
「私は私であって私ではないのです」
「そうゆうことです」


………はい?(・_・)


当時のワイは全く理解できなかった。

わからないまま、その日の講義は終了。


でも、〈空〉は仏教の最初期からあった思想で、仏教の根本の一つである。

だからワイはどうしても理解したかった。



その日から、目にするものや手にするものに対して先生の言葉を当てはめて考える毎日を送った。

朝、ハブラシを手にとって「これはハブラシであってハブラシではない」。

スリッパを履いて「これはスリッパであってスリッパではないんだよなぁ?」

鏡を見て「この私は私であって私ではないって言うけど、どうゆうこっちゃ?」。

などなど。


よく覚えてはいないけど、そんなことを1年くらい続けていたような気がする。

その後、本を読んで少しずつ知識を得ることも併せて、ある日「ハッ!そうゆうことか〜!」と理解するに至った。


ネットで検索すればすぐにわかりやすい説明が見つかりそうなもんだけど、当時はまだガラケー全盛期。

電波が入らないといってアンテナを伸ばしてフリフリしていた時代である。

PCだってどこの家にもあるわけではなかった。

何の本を読むのがベストなのかを調べることさえできなかった。




 

古代インドでは、物には実体があると信じられていた。

例えば、人間を〈魂と身体〉という二元論で考えた場合の〈魂〉が実体に当たる。

目に見える身体は壊れても、魂は消滅することなく永遠に存在するという思想だ。


(間違ってたらごめんなさい)


ちなみに、インドに限らず、実体の有無を問う哲学は西洋にも存在する。

全ての哲学は最終的には実体の有無に帰する、と何かで読んだ。


そして、先に言ったように、古代インドでは物には実体があるという考えが一般的であった。

そんななかブッダ(釈尊)は、「実体はない」と言ったのだ。

なかなかのアウトサイダーである。


つまりこれが〈空〉の思想なのだ。

【実体がない = 中はカラっぽ = 空】

こんな感じだろうか。


大学の先生が言っていた「これはペンであってペンではない」とは、

ペンという実体そのものがあってペンが存在しているわけではない。

ペン先、インク、バネ、シャフトなどが組み合わされてペンになっており、それらはさらにプラスチック、金属、油などの素材からできている。

つまり、さまざまな部品や素材が集まってペンという形を与えられ、書くという機能が与えられているものなのだ。


ペンというものに見えるけれども、実は素材が集まっただけのものですよ。

そうゆう意味で、ペンはペンであってペンではないのである。


で、〈空〉だったら何だっていうの?

という話になるわけなんだけど、ブッダ(釈尊)いわく、形あるもの(つくられたもの)はみんないずれ必ず壊れると言う。


例えば、ワイがスヌーピーのぬいぐるみが大のお気に入りだとしよう。

そのぬいぐるみは、生地・糸・綿(わた)などでスヌーピーの形に〈つくられたもの〉である。

スヌーピーには見えるけど、実は生地・糸・綿(わた)の集合体であって、スヌーピーではないのだ。

つまりそれは〈空〉なのである。


そんなただの素材のかたまりを好きだと言うのかい?

それに、スヌーピーのぬいぐるみは〈つくられたもの〉なのだから、いずれ必ず壊れて消滅するのだよ。

消滅するものに執着すると、それを失った時とても苦しむことになるよ。

スヌーピーのぬいぐるみはただの素材(繊維)の集まりなのだと理解して、それに対する執着を持たないことが苦しみを生じさせない方法なんだよ。


つまり、心奪われる魅力的な物に執着しないようにするためには、それは〈空〉であるのだと認識することで、見た目に惑わされないようにするための対処法なのである。


と、ワイは理解している。



おちまい




 

《補足》

「ブッダ」のあとにわざわざ(釈尊)と書いているのは、古代インドにおいては仏教に限らず悟りを得た人のことをみんな「ブッダ」と呼んでいたからです。

不要な説明かもしれませんが、釈尊とはゴータマ・ブッダのことですよ〜。




 

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